宮城県多賀城市在住で作詞家・歌手活動をしています

プロフィール

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作詞家 歌手 俳人

本名:佐藤良弘

出身:宮城県七ヶ浜町

日本音楽著作権協会準会員
宮城県歌謡作家協会理事
広瀬川倶楽部会員
杜の都笑楽隊会員
縄文どきどき舎主
遮光器土偶の会同人
俳句小熊座会員

 

略歴

高校二年生の頃より父親の影響を受け、川柳・俳句・短歌を始め、地元の河北新報文芸欄に投稿し多数掲載される。
昭和39年大学進学26歳の頃まで試作活動するもそれ以降筆を置く。
昭和52年父の死去にともない帰郷、不動産業を営む。
平成2年頃より塩釜市にて経済研究会に参加、その時に作曲家小泉勝弥先生と出会う。
本間俊太郎元宮城県知事より詩人宗左近先生をご紹介され『縄文』に初めて目覚める。
縄文をテーマとした自作詩「風のない街」に曲付けして戴き生まれて初めて歌謡曲の世界に足を踏み入れる。

その後、『佐藤よしひろ』名義で縄文歌謡詩を5作品発表する。
一方、『笠岩ひろし』名義で演歌やバラード系の作品を発表し、平成18年よりステージにて歌うことに目覚め、平成21年5月、スナックリリーにて15曲のライブを行う。
自作詩の「国府多賀城みれん街」「浮世島唄」「乾杯三唱」「遠い記憶の童歌」を好んで歌う。
平成20年、「壺の碑全国俳句大会」において金子兜太選特選一席に選ばれる。
笠岩ひろし名義は俳号としても使用している。

『咳の壺の碑 闇を突きにけり』

 


ペンネーム「笠岩ひろし」の由来

dsc00802生家の近くに笠岩権現堂がある。古来より風の神として旧暦2月8日の縁日には近郊在郷より参拝客が多く盛んなときには長蛇の列ができたという。
風邪が命とりになった時代風邪をひかないようにという庶民の願いは多かったでしょう。昭和20年初項父は軍事訓練がもとで肋膜炎から肺結核を患っていた。入退院を繰り返しながら必死に病魔と闘う父親の姿が脳裏から離れない。当時アメリカでは新薬のペニシリンが結核に効くと言うことで評判になっており、親は子どもの命を救うため土地を売ってその費用に充てた。肺結核になり入院してから父は川柳俳句短歌と文芸に生きる希望を見つけた。当時の河北新報に投稿して入選し掲載された。NHKのラジオ番組にも投稿しおやすみ前の朗読として何回か取り上げられ私も聞いたことが何度かありました。確か昭和26,7年のころだったと記憶する。私が小学校に入学するかどうかの時期だったと思う。短編小説の募集があり父はそれにも応募していた。父の思いは複雑だったと思うし定職もなく家でぶらぶらしているものだから世間体も悪く小説の懸賞金が入れば少しは楽になると思っていたのかもしれない。父は独学で苦労劣悪の環境で教員資格を取得してから周囲から先生と言われておりました。しばらくしてから新聞社から連絡があり入選したとい知らせで家中がパニックになり大騒ぎでした。やがて新聞に掲載され写真も載っているし近所でも評判になりいささか胸の内のもやもやが一時晴れたような父ではありました。賞金は5000円、当時としては結構有り難いお金でありその日は家族みんなでおいしい夕食を腹一杯食べました。次の日父は紅白の布を買いに町に出た。そのときの父のペンネームは[笠岩まもる]としていました。笠岩権現堂の霊験新たか紅白の布を奉納して感謝の気持ちを笠岩様に報告したかったのだろうと思います。私も父に手をひかれ一緒に柏手を打った記憶が鮮明にあります。そんな父のペンネームは[笠岩まもる]、だったら私は[笠岩ひろし]として笠岩様の名前を少しでも広めようと思ったのでした。